人形町今半の歴史
「今半」の由来
明治という激動の時代の中、現在の墨田区本所吾妻橋に一軒の牛鍋屋が誕生しました。明治28(1895)年のことです。最初の屋号は「今半」だったとも「今用」だったとも言われていますが、岡山から上京してきた髙岡常太郎が始めた商いです。
人形町今半の誕生
大正12年関東大震災の復興が進み、昭和3(1928)年、今半からのれん分けをし、「今半本店」「今半(現在の浅草今半)」に分かれて次々と営業を再開させました。この時、「今半」は2代目の髙岡耕治が屋号を継ぐこととなりました。
時代は下って昭和27(1952)年12月8日、浪曲師広沢虎造の定席であった日本橋人形町の寄席「喜扇亭」跡に「今半」の日本橋支店が開店しました。
昭和29(1954)年9月には今半日本橋支店の店長に「今半」の次男・陞(のぼる)が就任。その2年後の昭和31(1956)年3月に「有限会社今半」として独立、髙岡陞が初代社長に就任しました。
昭和34(1959)年、高度経済成長期に重役弁当として会席弁当を配達していましたが「出来立ての温かいすき焼の出前は出来ないだろうか。」と陞は考え、どじょう鍋に使われていた土鍋からヒントを得て、保温性の高い土鍋を樫の木で作った重箱に入れ、ご飯もすき焼も温かいままお届けするようになり大人気商品となりました。その後、アイディアマンの陞は、関西で牛肉を湯で煮る料理が有ると聞き研究し、人形町の銅細工屋でオリジナルの火鍋子鍋を作りしゃぶしゃぶを開始。牛肉のたたき、ポンズすき焼、フランス寿司等を開発。既存概念にとらわれない新たな挑戦が続きました。
人形町今半の歩み
その後、昭和42年、人形町今半は日本橋髙島屋店内に精肉売場を、昭和44年に新有楽町ビルに飲食店初の支店を、昭和49年には池袋東武に惣菜売場・精肉売場・佃煮売場を次々に開店、店舗を徐々に増やしていきます。現在では飲食店20店舗、精肉惣菜店18店舗、仕出しを担当するケータリング部門のキッチンを東京と名古屋の3か所で開業、精肉グロッサーリの通信販売、量販店等で販売している、割下や各種タレなどを担当している営業部門を加え、飲食店・精肉惣菜店・ケータリング・営業部門と全4部門にまで枝葉を広げてまいりました。